サマエル・アウン・ベオールの著書を紹介します。
革命的心理学(心理革命) Revolutionary Psychology
目次
第1章 「存在」のレベル
第2章 すばらしい階段
第3章 心理的反逆
第4章 エッセンス(「本質」)
第5章 自己非難
第6章 人生
第7章 内面の状態
第8章 あやまった状態
第9章 個人的な経験
第10章 さまざまな「エゴ」
第11章 親愛なる「エゴ」
第12章 根本的な変化
第13章 観察するもの、されるもの
第14章 ネガティブな思考
第15章 個性
第16章 生命の書
第17章 機械的な生き物
第18章 超実質的な糧
第19章 良き家の主
第20章 二つの世界
第21章 自己観察
第22章 おしゃべり
第23章 関係の世界
第24章 心理な歌
第25章 回帰と繰り返し
第26章 幼児の自己意識
第27章 収税吏と偽善者
第28章 意志
第29章 斬首
第30章 永続的重心
第31章 ノーシスの秘儀的なワーク
第32章 ワークにおける祈り
第1章
「存在」のレベル
私たちは一体何者か?どこから来たのか?どこに行くのか?私たちの目的は?なぜ私たちは生きているのか?
間違って「人」と呼ばれている、みじめな「知的な動物」は、物事を知らないだけでなく、知らない、という事実さえも知らない。
最悪なのは、私たちが置かれているこのとても奇妙で困難な状況である。私たちは自らの悲劇すべての隠された原因を無視し、すべてを知っていると確信している。
「理性を持つ動物」、言い換えると、人生のすべてに影響を及ぼすことができると信じている人物を、サハラ砂漠の真ん中に連れて行き、すべてのオアシスから遠い場所に置き去りにし、何が起こるかを観察してみよう・・・。
結果は明らかである。「知的なヒューマノイド」は、自分が強者であり、男らしいと信じているが、本当は恐ろしいほどか弱い。
「理性を持つ動物」は百パーセント馬鹿者である。彼は自分の素晴らしさに自惚れおり、幼稚園、マナー、小学校、中学校、大学、模範的な父親などへと素晴らしい成長を遂げると信じている。
しかし、そのだいそれた教育、マナー、肩書、収入にも関わらず、ちょっとした腹痛が私たちを苦しめ、心の奥底では不幸、悲惨であり続けることは周知のことである。私たちが大昔の未開人のままで、進化するどころかより逆に退化していることは、世界の歴史を読むだけでわかる。
戦争、売春、世界中に広がる性的退廃、麻薬、アルコール、想像を超えるような残虐行為、極悪非道などの20世紀の光景は、私たちが直面しなければならない鏡であり、より発展したなどとは、とても言える状態ではない。
時間がたてば進化する、などと考えるのは馬鹿げている。残念なことに、「学んだ無知者たち」は「進化論」にいまだ縛り付けられている。
人類の「暗い歴史」のページは、どの時代も変わることなく醜悪な残虐行為、野望、戦争で彩られている。
しかし、「超進化した」現代の人類は、戦争が取るに足らないもので、私たちの賞賛されるべき「近代文明」とはなんの関係もない、一時的な事故のようなものだ、と確信して疑わない。
重要なのは、私たち一人ひとりの在り方である。酒飲みになる者がいれば、禁酒する者がいて、正直者がいれば恥知らずがいる。人生には様々な者がいる・・・。
人類とは、個人の集合体であり、個人の在り方が大衆、政府の在り方なのである。
また大衆は個人の延長である。大衆や国々の変化は、個人-各人―の変化がなければ不可能である。
様々な社会的な階級が存在することは誰も否定できない。宗教家、売春に入れあげる者、商売人や農夫などなど。
同様に、「存在」の様々なレベルも存在する。高貴であるか、けちくさいか、高潔であるか、ずる賢いか、暴力的であるか穏やかか、純潔なのか情欲的か、私たちの中身によって、人生の様々な状況を引き寄せる。
情欲的な者は常に好色なドラマを呼び、淫らな悲劇に巻き込まれることも、当然あるかもしれない。酒飲みは酒飲みを引き付け、常にバーや飲み屋に入り浸っているだろう。これは明らかなことである。
高利貸しは何を引き付けるだろうか?エゴイストか?数々の問題、刑務所だろうか?妬みだろうか?とはいえ、人生に疲れ果て、苦汁を飲んだ者は自分を変え、新しい人生を始めたいと願っている。
なんて不幸な人々だ!彼らは変わりたいのにその方法、すべを知らず、まったく袋小路の状態だ。
昨日起こったことはまた今日起こり、明日も起こる。人々は同じ間違いを犯し、雷に打たれようとも人生の教訓を学ぶことはない。
人生で起こることはすべて繰り返される。同じこと言い、同じことをして、同じことに文句を言う。
このつまらないドラマ、喜劇、悲劇の繰り返しは、怒り、貪欲、情欲、嫉妬、プライド、怠惰、大食などの望ましくない要素を持ち続けている限り、続く。
私たちの道徳的水準、つまり、「存在のレベル」はどこにあるのか?「存在のレベル」が変わらない限り、悲劇、ドラマ、不運は繰り返す。
私たちの周り、世界で起こる状況はすべて、例外なく、私たちが内に抱えているものの反映でしかないのだ。
「外面は内面の反映である」と断言できる。私たちの内面が変わり、その変化が根本的であれば、人生の外面的状況も変化する。
最近(1974年)、近辺の土地を占領している人々のグループを観察してみた。ここメキシコでは、彼らはを「パラシュート部隊」と呼んでいる。
彼らは「カンペストレ」とよがれるチュルブスコ地区に近接しており、私の家の近くでもあったため、彼らを近くで観察することができた。貧乏は決して犯罪のせいではなく、彼らの「存在のレベル」によるものである。
彼は毎日のように喧嘩をし、酔っ払い、お互いにののしりあい、同じく不運な同志を殺し、愛もなく憎しみが渦巻く汚い小屋に住んでいる。
私は何度も、彼らから憎しみ、怒り、情欲、酒飲み、ののしり、残酷さ、エゴイズム、中傷、ねたみ、うぬぼれなどを取り去ることができたなら、当然、これまでとは異なった種類の人々を引き付けるだろう、と考えた。単に、「親和性の法則」によってだけでも、彼らはより洗練された、よりスピリチュアルな人々と知り合い、それによって経済的にも、社会的にも、変化していくだろう。
このようにして、彼らはあの「豚小屋」、「下水道のような家」から出ることができるのだ。
根本的な変化を求めるのであれば、私たちはまず、黒人、白人、黄色人種、無学であろうが、学識があろうが関係なく、人はみな、「存在のレベル」が異なるということを理解しなければならない。
私たちの「存在のレベル」はどこにあるのか?これについて考えてことがあるだろうか?自分自身の「存在のレベル」を知らなければ、次のレベルへ移動することは不可能である。